赤い板で波に乗る一枚の絵葉書の写真に興味を惹かれた鈴木氏は、 その写真を元に、その板切れを作ってみる。グライダーの翼の要領で芯材のまわりにベニヤ板を貼り、その上にペンキを塗るというなんとも原始的なものだ。そのボードにはフィンも無く、ましてやワックスも存在せず、おおよそサーフボードとは程遠いものだった。百聞は一見に然り…目の前の海に繰り出し挑戦するも、 ボードの上に立ち上がる方法も知らず、結果は無惨なもの。 しかも苦労して作りあげたその板切れは、当時は玉石が転がっていた茅ヶ崎の浜に簡単に壊され、水が溜まって引き上げるのも一苦労だったという。 何度か修理し試みるが、やがてその一枚の絵葉書の波乗りへの興味は冷めていく。
60年代は、我が国のサーフィン時代のまさに幕開けであった。1962年、当時逗子にいた鈴木氏は、七里ヶ浜の海岸で初めて本物のサーフィンを目の当りにする。駐留軍の米国人がサーフィンをしていたのだ。本物のボードとそれを使っての沖への出かた。
そして立ち上がり、波を乗り継ぐ姿…。かつての絵葉書ではイメージできなかったことが、 現実として目の前で展開する。 その瞬間から鈴木氏のサーフィンの長い歴史が始まる。やがて、帰国するその米兵からボードを買い取り、 ボード作りの研究材料にする。初めは硬質発砲スチロールをシェイプして新聞紙を巻き、 樹脂で固めるという方法であった。しかし、重さが15kgにも達し失敗に終わる。 やっと本物に近いサーフボードができたのはウレタン素材の発見であった。家庭製品用に作られた90cm立方体のブロック3個をボンドで繋ぎ合わせ、 ストリンガーを入れ、約2m70cmの長さの固まりにしてから削り出した。 かくしてフォーム、樹脂、ストリンガーと素材が整い、サーフボードと言えるものがこの時始めて完成した。
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